私たちは、多かれ少なかれ、あるべき理想あるいは望ましい理想と現実のはざまの中で生きていかざるをえない。
少年時代、そして青年に達する頃までは、理想を追い求めて生きてきたが、世の中の現実をだんだん知るにしたがって、理想はあとずさりを余儀なくされ、理想は少しずつ失われていく。それはいわば大人になることを意味する。
日本国憲法9条の歩んだ道も私たちの人生に似ているように思う。
9条は、第2次世界大戦で、国民とアジアの多くの人々の命が失われたことへの反省の中で、おそらくは世界の理想の憲法として誕生した。内容はまさに 青年の理想そのものである。憲法前文は日本の安全について「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して我らの安全と平和を維持する」とし、さらに9条で 「陸海空軍、その他一切の戦力はこれを保持しない」と宣言した。
2つ合わせて読めば、日本は、軍隊を持たないことを公約し、自国の安全につき、「世界の人々の心」という、不確かで、常に揺れ動き、安定のない、もっとも頼りにできないかもしれない存在に自分の身を託し、丸裸での平和宣言したとも言える。
それから60年、人生がそうであるように、9条もあるいはそこに内包された理想は、世界の現実の中で変化することを余儀なくされてきた。
日本は、9条成立時、まったく、戦力を持たないことを宣言したはずだが、それからわずか4年の後、朝鮮半島で起きた軍事的衝突を契機に、警察予備 隊、保安隊、自衛隊と名前を変えながら、今は世界でも有数の戦力を持つに至っている。名前をどう変えようが、今の自衛隊が戦争遂行能力を持った、つまり軍 事力を持った部隊、軍隊であることは疑いのないところだと考える。
私たちはこのことをどう考えれば良いのか。私が、学生時代憲法を学んだ30年前は、ほとんどの憲法学者が自衛隊は憲法に違反する、と述べていた。そ れならば自衛隊は廃止すべきなのか。しかし、現在の世界情勢の中で、諸国民の公正と信義だけに頼って自国の安全を確保するのは少し危うい気がする。国際社 会の現実の前では、憲法前文は空想的すぎると批判されるのも理解できる。
では、自衛隊を正面から認め、さらに世界各地で平和のために自衛隊による武力行使も認める方向での憲法改正をすべきなのか。自衛隊の存在だけを認め るなら現行憲法の解釈でも可能であるからあえて改正の必要はない。したがって、現在の改正論議は、自衛隊の存在を認めることにとどまらず、海外での武力行 使さえ容認できる方向での論議と考えて良いと思われる。これは、日本の海外での戦争への荷担を認めかねない方向での論議である。
このことがたくさんの命を犠牲にして成り立った憲法の精神に合致するのか。
戦争は平和の最大の敵であり、人権にとって最強の敵である。戦争のあるところに平和も人権もない。
憲法改正という道がどこにつながっていくのか。
私は、最初に理想と現実ということを述べたが、人生とは違い、憲法は理想を追い求め続けてもいいのではないかとも思う。誰かが理想を追わなければ、いつまでたっても世界が平和にならないような気がする。
武力による平和の確保という道は、イラクの現実を見ても成功しないものではないのか。復讐の連鎖だけが残される。
理想は現実の前に時に後退を余儀なくされるが、世界の平和については理想を追い続けてもいいのではないか。
今、それができるのは日本しかない。60年追い求めてきた日本の平和への道。人生なら大人になった年月が過ぎたが、平和への長い長い道を考えれば、まだ憲法は青年期にあると呼んでよいと考える。
理想を失うにはまだ少し早すぎる。
理想を失うとき、人は老い、理想を失った国家は衰退する。
憲法は改正せずに、武力によらない紛争解決への道、平和への道を達成するという理想を、もう少し追い求め続けることが、多くの犠牲者を出し、世界で唯一の原爆の被害者を出した日本だからできる、日本の責任だと思うがどうだろうか。
いずれにしても難しい問題である。いろいろな観点からさらにこの問題を考え続けたいと思う。
(注:この談話は、2007年11月10日のシンポの挨拶文と同じです)
2007年11月10日
山梨県弁護士会
会長 小澤 義彦